12月06日 Tumblr
作ってみたり。どうなるかは不明。向こうがメインになる可能性もあるし、早々と潰しちゃうかもしれない。
12月05日 睡眠
このサイトはテキストやろうぜって布教している人たちに感化されてできたサイトなのですが、その人達の間でバトンリレー、つまりあるお題について書いてその後別の人にお題を考えて渡す、なんて洒落たことをやっていまして、なんとこの私めのサイトにもお題が回ってきたんです!有り難し!お題を回してくれたのは「押し入れに隠された妖怪」さん。最新記事はドラクエ8についての記事なんですよね。音楽についてちょこっと触れていましたが、私はドラクエ8の曲では「神秘なる塔」という曲が一番好きで、プレイしていた初めて聴くのがゼシカの村の近くのリーザス像の塔で、ゼシカが兄を弔いに出て行っているのですが、初プレイ時のあの塔の雰囲気がもうとても好きで、その雰囲気を作った一番の立役者が神秘なる塔だと思います。話がズレすぎました。睡眠についてでした。はい。
私は睡眠の地位が急降下していっていることを知っている。そもそも睡眠の地位が高かったことすら知らない人も多いのではないかと思う。睡眠、とはつまりRPGの状態異常の睡眠である。RPGの状態異常、といえば何を思い出すだろうか。睡眠、毒、混乱、石化、やけど、沈黙、恐怖、痺れ、戦闘不能(死亡)、盲目、転倒、スタン、灰化、~DOWN(力、防御力等何かひとつステータスがDOWNする。ルカニ食らった状態とか。)、ストップ、魅了などだ。
この中で地位が低い、つまり皆があまり恐れていない状態異常を上げていくならば最下層は「盲目」「恐怖」あたりであろう。盲目は暗闇なんて名前のことも有り、簡単に言うと目が見えなくなる状態のことで、敵へ物理攻撃をしようとすると外れる確立が○%上がってしまう、なんて場合が多い。何故か魔法だったり回復アイテムだったりは影響されないのだが、現実的に考えてみると目が見えないのだから魔法も当たらないような……。「恐怖」「痺れ」は恐怖や痺れで行動できない場合もある、なんて感じで状態異常中は絶対に行動できないのでは無く、行動できないこともあるけど行動できることもあるよ、みたいな感じの状態異常だ。また「○○DOWN」等のバッドステータス系は結構ダメージ量が変わってくるので恐ろしい状態異常といえるがこれだけで死亡することはどのRPGにおいてもほとんど無いためあまり恐れられることは無い。「毒」「やけど」は毎ターン一定ダメージを食らうという、これも地味に痛い状態異常なのだが、これらの状態異常は戦闘終了後も一歩移動する度にダメージを食らう仕様になっていることが多いため非常に面倒。
次に恐れられているのが「スタン(もしくは気絶とも。戦闘不能状態とは異なる)」「睡眠」「転倒」等の行動を封じてくる系であろう。これはパーティー全体にかけてくる系の敵が居ると下手すると全滅する恐れがあるからだ。特に睡眠はパーティー全体に攻撃する技が多かったため非常に恐ろしい呪文であった。だが最近はスタンと同様物理攻撃を食らうと目が覚める仕様になっていることが多く、非常に地位が下がった。転倒は一回行動不能の状態異常であることが多いが、連続して使用してくる敵が多いことから若干恐ろしめである。これらの派生系が「ストップ」や「石化」である。石化は基本的に回復アイテムを使用するか専用の回復呪文、町の施設では宿屋では回復せず教会で回復せねば治らない、と厄介な状態異常だ。ただし石化をパーティー全体にかけてくる敵はおらず、対策さえしておけば基本的には安全に対処できる。ストップは時間を止められて行動できない状態異常で、基本的に治すことは出来ないが必ず2ターン程度で自然回復するため、2ターン程度回復が無くとも耐えられるようにしておけば、もしくは体力の回復アイテムを用意しておけば安全である。
更に恐ろしいのが「混乱」や「魅了」で、混乱している味方は敵、味方をランダムに、また攻撃、回復などをランダムに行ったりするので、味方が強ければ強いほど混乱時の被害が大きくなる。「魅了」状態になってしまった味方は混乱と違い必ず味方を攻撃してくることがほとんど。ただし技や呪文を使用せず直接攻撃しかしない場合が多く、混乱とともに物理攻撃を喰らうと正気に戻ることがほとんどだ。また「戦闘不能」「灰化」等はHPが0になったりした時の状態で通常は専用のレアなアイテムを使用したり、通常の回復呪文よりも消費MPが多く、中盤以降にしか覚えない蘇生呪文を使って回復する。戦闘終了時に戦闘不能だった場合経験値が入らない仕様のRPGも多いのが更に厄介な状態異常だと言える。「灰化」はどう考えてもウィザードリィですはい。蘇生に失敗すると灰化、灰化からの蘇生に失敗すると消滅、つまり完全なる死が訪れたりする恐ろしいRPGもある。
と、睡眠である。睡眠は以前はもっと恐ろしい状態異常であった。例えば睡眠状態を回復する手段が無いFF1、睡眠状態だと打撃ダメージが2倍になるウィザードリィだったりと非常に恐ろしい効果を持っているにもかかわらずパーティー全体に睡眠状態にさせる系の呪文を唱えてくる敵が多かったりした。だが、過去シリーズではザメハという専用の回復呪文を覚えるまで何もできなかったのがドラクエ8ではキアリクで回復してしまったりと睡眠の地位はどんどん下がっていき、最近のゲームでは物理攻撃一発で目覚める上にダメージ量はそのままとあまり恐れなくとも大丈夫な状態異常と見なされてしまっていることがほとんどなのである。おいたわしや……。
だがしかし、世界樹の迷宮の「危険な花びら」や「破滅の花びら」という敵は睡眠という状態異常の地位を見直す機会を与えてくれた素晴らしい敵だ。具体的に言うとこいつらは基本的にこちらが全員眠り状態になるまでひたすら眠らせる攻撃をし続け、こちらが全員眠ると高威力の攻撃で撲殺してくるという危険きわまりない敵である。いや、マジでこいつら怖い。他のモンスターと同時に登場したときは更に危険度が増し、正直最深部の敵よりも恐ろしいレベルなのだ。状態異常の睡眠を侮っている人たちは、今一度睡眠状態の恐ろしさを再確認するべきだ。よくよく考えてみると状態異常の睡眠というのは催眠ガスを噴射されたり、睡眠薬を盛られた状態ということで恐ろしいのは当たり前である。痺れややけど、毒程度であればなんとか敵から逃げ出すことも可能であろうが、睡眠とはつまり意識を失うのである。敵が知的であればで装備やアイテムを全て持って行かれる可能性もあるのだ。モンスターハンターなんかでは睡眠状態へのダメージが3倍だったりと睡眠の恐ろしさを再確認できるゲームも増えてきている。近い将来状態異常の中でも睡眠がトップに来る可能性も高い。睡眠の恐ろしさを思い出した人、睡眠の恐ろしさを初めて知った人は恐怖で眠れない夜が続くだろうが、それでもエブラーナ城で手に入れた目覚まし時計は大事にとっておくことをオススメする。
これはバトン企画でしたね。では次はLOGSTACK!さんに回します。バッカス良いですよね。お酒と甘いものは基本的には相性が悪いのですが、チョコレートは別で、ウイスキーボンボンを始めとしてチョコレートとお酒の融合は古来から試されてきた訳で、中でもコニャックやウイスキーといったアルコール度数が高めのお酒がよく合いますよね。バッカスはアルコール度数的に酒類分類されていないため未成年者でも堂々と買えたハズなので未成年者の方はバッカス買うと良いと思いますよ。酒類に分類されていないとは言え、たくさん食べればほろ酔いになんとか盛っていけるか持っていけないかぐらいにはなれるかもしれないので、寝る前にはぴったりです。無理やり睡眠につなげようとしましたけどちょっと無理でした。と、また話題がずれましたが、お題は「雨」で回したいと思います。私、雨好きなんですよ。ちなみに案内や報告は「ですます調」で、どうでもいい思考の垂れ流し部分は「だ・である調」と使い分けてたりします。違和感を感じてた人も居そうなので一応。
12月03日 長い文章
スマートフォンの普及があなたが今見ているテキストサイト、またブログを廃れさせ、更にTwitterのような短い文章のやりとりの流行に力を貸したと思われる。その要因として、長い文章を書くよりも短い文章のほうが敷居が低く直感的に書くことができる。なんてことも考えたりもするが、Twitterを見ていると140字では収まりきらず何ツイートも続けて発信してところを見る機会は少なくない。人間という生き物は自分の考えを他人に知ってもらい、共感してもらったり、逆にわざと反発を買ったりするのが大好きで、脳内を垂れ流すことに対しての労力は惜しまないように思える。ともすれば、スマートフォンが流行ったとしてもテキストサイトやブログという長文文化がここまで廃れることも無かったのではないか、とも思うのだが廃れてしまったのはガラケーからスマホに移った今現在でも携帯機でメールをほとんど利用しない、つまるところ入力が非常に面倒というところにあるような気がする。私の入力速度が遅いだけ、かもしれない。私のフリック入力速度は平均ちょい上ぐらいで決して遅いほうではないと自負している。携帯機の入力速度の遅さから携帯機で長文を書く気が失せてしまうところまではなんとなく共感していただけたと思う。だが、それでは家に帰ってキーボードで長文を入力してしまえば問題は解決してしまうように思う。だが、残念ながら家に帰るまでにTwitter等で自分の中の他人に伝えたいことを吐き出してしまっており、家に帰ってキーボードに向き合って長文を書こうとする頃にはすっかりそんな気力は失せてしまう。先ほど書いた「脳内を垂れ流す」という行為は量よりも誰かに伝わったか否かが満足感に大きく影響しており、とりあえずなんでもいいから吐き出したしいいや、なんてことになってしまう。そしてこれは文章の長さだけが問題になるのではなく、その吐き出すまでの時間が短くなってしまうことも大いに影響してくる。というのも、Twitter等の短文で他人とやりとりするサービスはスマートフォンでどこでも発信できる為、感じたことをすぐに伝えることができてしまう。これはメリットであると同時にデメリットである。自分の中で「誰かに伝えたいけど伝えられない」というもどかしい状態でネタを寝かしておくと、その間に他のことと関連付けられたり、冷静にそのネタについて分析できて更なるネタの質の向上の機会が得られたりするものだが、短文で即発信してしまうと発信した満足感からそのネタについて振り返る機会が一気に失われてしまい、その結果ネタの質が大幅に低下してしまっている場合も多々あるハズなのだ。
私が言いたいのは短文でいつでもどこでもすぐに発信できる環境がダメだ、ということでは無い。短文で発信すると良いような感情、やりとり、その他の共感や批判、作品の感想と寝かしておいて長文で発信したほうがよいようなネタ、日記、自分の感性の発信があって、そういうものの住み分けを行うことで現在廃れてしまった長文の価値を見直す機会が得られるのではないかということだ。長文は時間、気力、推敲など短文が必要としない面倒な面がある。だが、これらを面倒だと思わずに、長文にしかできない長所だと捉えることにより短文文化に対抗することができるではないか、と思う。短文で誰かに吐き出してしまうまえに一度落ち着いて長文にしてみたほうが正確に、またはより読む人が楽しく読めるものになるのではないか、と考えてみると良いのではなかろうか。
ちなみに、この文章はタブレット端末にUSBキーボードを接続して書いてみた。スマートフォンの入力速度の遅さ問題はキーボードを持ち運ぶことで解決できるのだ。一度職場や学校等自分が外出してよく滞在する所にUSBキーボードを置いておくと長文を書く助けになるかもしれない。
12月01日 今年一番おもしろかったもの
今年一番おもしろかったものについて思いを巡らしてもどうしても「一番」という所にひっかかって出てこない。「一番」とはどういう意味での一番なのか。そりゃあ君が思う一番だったらなんでもいいのだよ、という心優しい聖人君子のみがこの世の中に住んでいるのでは無い。一番というのが瞬間的な面白さでの一番なのか、それとも毎日の積み重ねとしての一番なのかという所から思いを巡らしてみる。だが、瞬間的な面白さと継続的な面白さというのは結構別な面白さでありそれらを統一してどちらが面白いか、と判断することは難しい。また、面白さにも色々あり、感動的か、はたまた笑える面白さなのか、それとも声に出すような笑いでは無く、心が暖かくなるような面白さなのか……。これらを考慮せずに、ぼくはぱしふぃっくりむがいちばんおもしろかったです!!!なんて書こうものなら普段は全く押されない拍手コメントが誹謗中傷だらけになる恐れが高く、慎重に書かなければならないのだ。(ここでこの「今年一番おもしろかったもの」というテーマが他人から与えられたテーマ、というよりはテキストサイトをやっている集団でのお題のようなもの、ということを説明しておかないとわからない人が居るかもしれないので補足しておく。)
と、ここで新たなる問題を発見してしまう。今年というのは2013年のことなのだが、残り一ヶ月来ていないのだ。不味い。本当はこの記事は来年の始めのほうに「去年一番おもしろかったもの」としてあげるか、もしくは12月31日の11時59分あたりで挙げればきっと聖人君子でない人も許してくれるであろう。だが、しかし、このテーマは今日書くことが推奨されているのだ。なんという難題であろう……。
待て、残り一ヶ月残っているということは、逆に考えれば残り一ヶ月の猶予があるということだ。私は残り一ヶ月で今年に体験したどんなことよりも面白いことを体験すべく努力すれば、ここで今年一番おもしろかったものを不明瞭なままにしておいても許されるのはではないかということに気づいた。そう、今年一番面白かったことはこれから起こるのだ!
あ、ちなみに漫画のパンプキンシザーズです。
11月30日 リストカット・説明口調
BELGA、なんて過疎SNSに登録していたりして、そこでつぶやいたどうでもよすぎる投稿を適当に抜いて貼ってみるという手抜き更新
・リストカット
リストカットシンドロームという言葉が出来るぐらいにリストカットは有名になったけど、周りに構って欲しい、もしくは自分の生きる実感を求める手段としてリストカットを選ぶのは自分と似たような境遇の人がリストカットをするという情報を得ているからするのか、それとも自傷行為の最も手軽、かつ人や自分の目につきやすい場所として手首を切ることを選んだのか。もしも仮に前者だったとすれば自分と似たような境遇の人がとる行動をリストカットでは無くノーパンで過ごすことである、という情報を得て育った人がそういった精神状態に陥った時にノーパンで過ごし始めるのかすごく気になる
血を見ると生きる実感が湧く、という感情そのものが既に「自分の血を見ると生きる実感が湧く」という情報に影響されたものである可能性もあるはずで、例えば大々的に各メディアで精神状態が不安定な人が「ノーパンで過ごして、股間がスースーしていると生きる実感が湧く」と感じているという情報を流し続ければその情報を得て育った世代の人は本当にノーパンで過ごすと生きる実感を感じるようになるかもしれない。
リストカットの厄介な所は傷跡が残る所で、本気で傷跡消そうとしたら結構なお値段したハズ。 そう考えるとリストカットの代替手段としてノーパンで過ごすことをオススメしていきたい。今度リストカットしたくなったらそれをグッとこらえてノーパンで過ごして頂きたい。
・説明口調
ライトノベルを代表とする小説って、その世界の設定についていきなり語りだすけど現実ではそんなことあり得ないよなぁって焼きそばの話引っ張るくだりを読んで思った。特にファンタジーモノの多く感じる。 具体的に言うと、例えばファンタジーモノだったら A「盛りそば騎士団が……」 B「盛りそば騎士団って言ったら、盛りそばアイランドを本拠地にしていて、騎士団長がソババリアン、団員は300人程の巨大騎士団、今から2年程前に結成され、結成当時は対して目立った行動も無かったが、丁度1年ぐらい前から急に悪い噂が流れ始めた、かと思ったら急に力をつけはじめて現在の300人規模にまで育ったと聞くが?」 A「ああ、その盛りそば騎士団の副団長、ソバ・モリスギがどうもこの事件の裏に居るらしいんだ」 みたいな。 この場合AもBも盛りそば騎士団について知っていて、Bのほうは自分の知っている盛りそば騎士団がAが話している盛りそば騎士団と合致しているかどうかを確かめる為にこんな会話をしている訳だけど、現実でこういう会話をする時ここまで詳しく説明したりしないはずで……。 A「盛りそば騎士団が……」 B「盛りそば騎士団って言ったら、最近力をつけはじめた盛りそば騎士団?」 A「ああ、その盛りそば(ry」 というのが現実的。 しかし、読者は盛りそば騎士団について全く知らない。登場人物全員その盛りそば騎士団について知っている限りはこういった突然の解説にも似たような長台詞を吐かせるぐらいしか上手い説明方法が無い。 だが、一つ自然に説明する方法があって、登場人物の一人が盛りそば騎士団について知らない場合は A「盛りそば騎士団が……」 C「盛りそば騎士団って?」 B「ああ、盛りそば騎士団っていうのは盛りそばアイランドを本拠地にしていて、(中略)。だよな?A?」 A「ああ、その盛りそば(ry」 みたいな感じで一気に自然になる。
会話に入れずに主人公やその物語の語り部が突然説明を入れてくれたりする手法もあるけど、そっちのほうが幾分か自然なはずで、例を挙げると D「盛りそば騎士団が……」 A(この、盛りそば騎士団というのは、盛りそばアイランドを本拠地にしていて(中略。)一気に知名度を上げたので、盛りそばアイランド周辺に住んでいる者ならだれでも知っている) D「……その盛りそば騎士団の副団長(ry」 といった感じ。
11月29日 フォーク並び
先日某スーパーマーケットにてその日の晩御飯の食材を選び、レジに並ぼうとしていたのだがタイムセールもひと通り終わった感じの時間帯で結構な混在具合だったのだ。そのスーパーはレジと食材が置いてある所の間に結構余裕があるので、足元を見ると誘導線が有り、誘導線はフォーク並びを推奨していた。フォーク並びのことを知らない人がいるかもしれないので説明しておくと、フォーク並びとは、例えばレジが5つあったとしても列を一つしか作らず、前の人から空いたレジに順番に進んでゆくという方法のことで、ユニクロや大手家電量販店なんかは必ずフォーク並びを採用している。何故かというと、レジにかかる時間は人によって違い、自分の前の人が厄介な料金の支払い方法なんかで時間をうんとかけて買い物をしていった場合、結果的に見ると一番早く買い物を済ませることが出来ると思って並んでいたレジよりもとなりのレジのほうが早く買い物ができた、なんて状況があり得る。だが、フォーク並びの場合は列は一列なので一人レジに長期滞在を決め込んだとしても後ろの人には関係無いのだ。また、フォーク並びのほうは列が一つしか無いため何も考えずに並んでおけば良いが、個別に並ぶ場合は自分の前の人の買っている量、レジの担当者が素人か玄人か、なんてことも考慮しなければならない。疲れる。だから私はフォーク並びと個別に並ぶ店があればフォーク並びの店が大好きなのである。で、そのフォーク並びを採用しているスーパーで並ぼうとしたのだ。すると私はあることに気づいた。フォーク並びでは無いのだ。普段より混雑していることと、列を誘導する人が居ないこと、フォーク並びに気づかずに個別に並ぼうとした客を見てその後ろに並ぶ客が居たりして結果的に個別で並んでしまっていたのだ。私はフォーク並びを愛しているので、皆が個別に並んでいても関係無くフォーク並びの列をつくろうと個別に並んでいる所から足元の誘導線に従い、レジの進行方向に対して並行に並んでいる列の最後尾ちょい前あたりから、私の目の前の人が私の前に入れるように少し間を開けて垂直に並んだ。しかし、私の意図に気づいてくれず、列の最後尾の人は曲がってくれず、それどころかその最後尾の人の後ろに人が並び始めたのだった。私はフォーク並びへの思いを燻らせながら結局個別の列の最後尾に行き、それからレジの人に「フォーク並び、いいですよね」とだけ言っておいたのだった。
11月28日 好きな歌、非実在言語、人工言語
歌、といっても色々あるが、私の場合は非実在言語の歌が好きだ。
非実在言語の歌といえば、梶浦由紀の梶浦語使用の歌だとか、ニーアレプリカントのカイネやロコロコの歌などがある。実際には存在しないので意味のとりようのない言語を用いた歌だ。歌を聴いている時に、歌詞の意味を考えたりして楽しむ人たちも多いのだろうが、基本私は普段歌を聴かないのだ。もっと正確にいうと、歌よりも歌のないインスト音楽が好きなのだ。だから好きな歌は?なんて尋ねられた時に少し困ってしまうのだが、非実在言語の歌は音声を一種の楽器として捉えることができるため非常にインストに近い楽しみ方ができる。非実在言語の歌は人間の歌の持つ不思議な力を感じさせ、言葉の持つ独特の雰囲気を残しながらもその意味がわからないので、聴いた時の気持ちに応じた解釈ができたりするのも良い。
英語の歌詞を全く意味を聴き取ろうせずに聴くのもそれなりに良い。よく外国人が日本語のTシャツを意味のわからないままに着て楽しんでいる姿がネットに挙げられたりするが、それと同じように日本人も訳のわからない意味の英語のTシャツをきたりして楽しんでいたりして、文字のデザイン性と共に意味のわからない言葉への畏怖的なものが相まってかっこよく見えるのだろうが、自分の理解できない言語で歌われる歌、というのも一定の力を帯びるように思える。サカサマのパテマ、という映画のエンディングの歌はエスペラントで歌われている。エスペラントは現在世界で使われている人工言語としては最も普及しているものである。人工言語というのは人工的に作られた言語のことで、なんて説明をすると言語自体人間が作ったものじゃないか、なんて思う人も居るだろうから少し補足しておくと、一般的な言語は人間が社会を営む間に起こるコミュニケーションから発達していったものだと考えられており、半ば自然発生的に発達していったのだ。それに対して人工言語は人間が設計した言語なのだ。エスペラントという具体例を用いて説明してみると、エスペラントはなるべく多くの人が覚えやすいように設計された。英語、フランス語、イタリア語等ラテン語派生の言葉をベースとしているが、ロシア語や中国語に見られるアクセントによる言葉の意味の違いや、女性名詞、男性名詞等の覚えるほか説明しようのない言葉のルール等をできる限り排し、覚えやすいように設計されている。また同じ理由で促音便などがないのが特徴だ。と、ここでやっと歌の話に戻ってくるのだが、促音がないためにエスペラントはすごくたどたどしいというか、英語やフランス語ならば流れるように話せるところであっても、促音便がないためにわざわざ発音しにくい言葉を並べたりするため、悪く言えば聴き慣れない、いかにも発音しにくいような言葉になってしまう。だが、これが返って意味がわからない言葉として聞いた時に、いや、聴いた時に、非常に呪文的に聴こえて独特の魅力を持つのだ。非実在言語、人工言語バンザイ!!!
当初予定した内容とはだいぶ変わってしまったが、非実在言語、人工言語の歌を意味のわからないままに聴いてみるのは如何だろうか。
11月20日 名
突然だが、あなたが現在所属しているグループを一つ思い浮かべて欲しい。出来ればそのグループはある程度人数が多く、かつそのグループに好感を持っていて、かつ所属したばかりではなく出来れば1年ぐらい所属している、なんて感じなのがベストである。もしも思い浮かべることが出来ないのであれば職場の自分の周りの10人ぐらい、もしくは大学のサークル仲間、ないし高校のクラスメートを10人ぐらい用意して欲しい。準備は出来ただろうか。
さて、ここで質問。今思い浮かべた人たちの下の名前、言えますか?
下の名前というのは姓名の名のことであり、柳田国男の国男、セシリア・レイン・アーデルハイドのセシリアにあたる所である。セシリアのように通称が下の名前の場合はパッと出てくるもので、日本人の場合は佐藤、藤井、山田、吉田などの比較的多いとされる苗字は区別をつけるために名前をそのまま呼ぶことが多かったりするので出てくるが、逆に少し珍しい苗字だったりすると苗字のほうしか呼ばれず名前を意外と覚えていなかったりする。その他出会った時からニックネームが定着していたり、下の名前で呼ぶと馴れ馴れしい等の理由である程度長い付き合いでも苗字でしか呼んでいなかったり、色んな理由で名前を覚えていなかったりするのだ。やばい。
また、例えば「英信」という私の友人は「ひでのぶ」というのが正しい読みなのだが、私が友人として付き合い始めた頃からその英信は「えいしん」と呼ばれていた為、ずっと「えいしん」だと思い込んでいたりだとか、チャーチル・フェルナンド・チハ、というニックネームがついていた私の友人の名前が「知晴」で、ニックネームの最後の「ちは」が読みだと思っていたら「ちはる」だったりと、漢字の読みを弄るニックネームがややこしくする。
長年の付き合いの仲間が自分の名前が覚えていなかったことを想像してみると結構がっくりきそうなのは相手も同じなのだろうから、もしも名前が思い出せなかったり読みに自信が無い人が居たりした場合は確認してみると良いかもしれない。名刺交換や自己紹介の際、しっかり名前を尋ねておくのも重要だ。
11月17日 サカサマのパテマ
手を放したら彼女は空に落ちていく。
サカサマのパテマというアニメ映画を見た。まだ見ていないなら今すぐ劇場に駆け込むべき傑作。とってもオススメ。誰と観に行っても楽しめるし、一人で観に行っても、家族とでも、恋人とでも、見知らぬおっさんと観に行っても楽しめる。何故ならストーリーが王道、ボーイ・ミーツ・ガールだ。パンフレットを読んだ後にこの文章を書いているので多少パンフレットに影響されているかもしれない。ICOというゲームにも影響された、と書いてあったが、ストーリーは簡単で、親方、崖の下から空に落ちる女の子が!となって女の子と仲良くなるも捕まり、女の子は塔の上に閉じ込められる。これを助ける。これだけの、だがこれだけであるがゆえに面白い。これ以上言うとネタバレになるので何も言いますまい。え、これだけ?って感じはあるだろうが、私はこれだけしか書かない。だが、これだけしか書かないぐらい面白いのです本当に。
11月13日 言語の恣意性とクオリア問題
言語の恣意性というのは、言葉ひとつひとつがその言葉である必要性を持っていない、つまり適当に決められたからそう読んでいるだけで、別に全く違う音に変わってもなんの問題も無いということだ。具体的に言うと、盛りソバ、という食べ物があるが別にその食べ物の名前は盛りソバという名前でなく、「ぎょんべらむ」という名前であったとしてもなんら問題は無い。盛りソバという言葉の音と、盛りソバという言葉が指すものとの間に必然性は無い。いや、盛りソバというのは蕎麦という食べ物を盛ったものを指すので必然性がある、と考える人も居るかもしれないが、そもそもにして「盛る」という動作と「もる」という音、それから「蕎麦」という食べ物と「そば」という音の間にも必然性は無い。
クオリア問題というのは、私達がりんごの色を赤色だと認識するが、りんごが赤色である必要性が無いということだ。クオリアという言葉から説明すると、クオリアとは「感じ」のことで、りんごを見るとりんごからは赤い感じがする。それは人間の網膜が赤い色を認識し脳になんとかしたりしてりんごを赤く感じさせているのであろうからなのだが、別にりんごという果物から感じる「赤い感じ」は別段「赤い感じ」である必要性が無い。
言語の恣意性とクオリア問題から導き出されることは、我々が話している言葉も、普段感じていることにすらも必然性が無い故に、私と私以外の人間とで同じ言葉を話しても、その言葉が指すものが全く別である可能性があり、また私と私以外の人間では全くクオリアの感じ方が違う可能性があるということだ。具体的に言ってみると、私が「盛りソバ」と言ったとする、その言葉を聞いた別の人が私と全く同じものを思い浮かべているとは限らないということだ。なぜなら、「盛りソバ」という食べ物と「モリソバ」という音の間には必然性が無いからだ。そのことをその人に尋ねようにも、その人がまた恣意性の無い言語を使ってそのことを伝えようとする限り、確実に伝わったかを判断する方法は無いのだ。私が「盛りソバ」と言って食べ物の盛りソバを伝えられたどうかを聞き手に尋ね、その聞き手が「ああ、ソバを盛ったアレね。ざる蕎麦との違いがわからないアレか」みたいなことを言ったとしても、その聞き手が「ソバ=うどん」と認識しているかどうか等判断のしようが無い。それこそ攻殻機動隊に出てくるような電脳技術が出てくるまでは不可能だろう。また、クオリア問題をとりあげると、私は「りんごは赤い色」だと思っており、私とは違うAさんも「りんごは赤い色」だと思っているが、その赤い色は全く別の色である可能性があるということだ。例えば私が感じるりんごの赤いクオリアをAさんは青空から感じ、私が青空感じる青いクオリアをAさんはりんごから感じるかもしれない。だが、言語に恣意性が無いのでそのことは確認出来ないのだ。「りんごって赤いよな」「うん、赤いね」と会話できたとしても、Aさんが思い浮かべる「赤」は、私が思い浮かべる「青」と全く同じものかもしれないのだ。
必然性が無いクオリアを得、恣意性の無い言語で会話している私達はもしかすると全く違った感性を持っているのかもしれない。自分だけがりんごを赤く感じ、他の人はりんごを青く(私が思う青で、他の人はそれを赤と表現する)感じているのかもしれないのだ。それと同じように、幸せのクオリアにも必然性が無く、正しさのクオリアにも必然性は無い。だが、私達は前提として人間は皆同じように感じると信じているのだ。そう信じて上手く世界が回っているのだから、今日とりあげたクオリア問題や言語の恣意性は机上の空論のようなものなのなのだ。でも逆に考えて見ると、必然性が無いにも関わらず皆が同じ感じ方をしていると信じることが大切なのでは無いか、とも思うのだ。私が幸せと感じることは必然性は無いけれど、あなたも幸せと感じるに違いない、という思いの元私達は生きている。その必然性を証明することは不可能なのだから、信じるしかないのだ。
お詫び
盛りソバ食べ放題アイランドではなく、盛りソバ食べまくりアイランドです。
ここ数年行っていない焼肉食べ放題と私の貧困が悪いのです。
私が悪いです
本当に申し訳ございません
更新履歴
06月16日:Favicon起きました。ブックマークした時にちょっとだけ楽しいよ。
06月12日:Web拍手設置。
06月10日:リンクのページを充実させてやった。ざまぁ見ろ。
06月09日:とりあえず公開。名前をいきなり間違える。IEホビロンなサイトに変更。
06月02日:名前をいただく
連絡手段
拍手ボタン作りました。
必ず返信をする訳ではございませんのでそのへんは察してください。